clovoxlの勝手にブログ


   【生命の不可思議し】生命論
   国際宇宙スティションからの撮影画像

       〖NASAの提供〗

     
色心不二の生命哲学

    唯物思想と唯心思想の相違



                      
        生命の本質論                     色心不二の生命哲学 No 1
   仏法に、帰命(きみょう)と言う言葉があり、次のように説かれている。
   【帰】とは~たえず新陳代謝して宇宙に還元されて行く肉体であり、是を〖色法〗と言う。
   【命】とは~〖心法〗の事です!絶えず宇宙のリズムに冥合して行こうする作用を言う。
   末法〚釈迦仏法の功力が無くなって、次の時第を言う〛の仏である日蓮大聖人が、『此の色心不二の生命
   哲学が、最高の哲理であり 》 との大確信です〃。
   【色(しき)】とは、 眼に見える物、物質。形質、或いは肉体を意味するものです。
   【心(しん)】とは、物質でない物、性質・性分、或いは精神、内在する力などを意味する。
   唯物思想は、物質が根源であり、物質中心主義で!! 人間も一個の物質と考える危険な思想です〃。
   唯心思想は、精神が本源であり、物質はその幻影に過ぎないとする思想なのです。
   これ等の思想は、共にある一面の真理を説いたものと言えるだろう! しかし、部分観は部分観としての
   意義を持つだけで、部分観を持って全体観とする事は甚だしい誤りだと思います〃。
   生命それ自体は、唯心でも~唯物でもなく、思うに現代の哲学に於いては今日に至るまで生命については
   幾多の議論が展開されてきましたが、なんら根本的な解決は、なされていないのです。
   19世紀フランスの実験生理学者 《クロ―ド、ベルナ―ル》 は次の様に語っている。
   『唯心論と唯物論を哲学で論議するのは良かろうが、実験生理学では問題にならないし何の役にも立たない

   
規範は実験にしか求められないからである。 今日打破生理学は精密化学となった!。 
   もはや哲学・神学上の諸思想を払いのけるべきである! 想えば長い間これ等の思想が、混在していた。
   数学者や物理学者に、唯物論者かと聞く必要が無い様に、生物学者にもそんな質問はすべきでない〃。』
   と、この主張は、いかに今日まで、唯物論ならびに唯心論が生命自体の、研究の妨げになって来たかを
   物語る一つの証拠と言えましょう。 彼自身が、究極を解決しえたとするのでなく、新しい角度からの究明が
   必要に思う 。  その一つの示竣として引例してみました 。
         
一念三千の法門 NO 2
      もはや!不可思議な生命の実体を、唯物・唯心で診ようとする時代は過ぎ去った〃。
      もしも、この様な思想で論ずる人がいれば、過去の死せる思想に執着する可哀そうな人だと思います〃。
        結論として言えば生命は〝色心不二〞なのです! 是こそ現代の哲学・生理学・医学等々、全てが帰趨し
      て行く事実と思うところです 。
   特に生命の問題と、密室な関係を持つ医学の分野に於いて、そうした傾向が顕著ではないでしょうか!?。
   精神身体医学者が最近とみに叫ばれている! これも一つの好例だと考えられます。
   これは、病気の原因をたんに肉体だけに限るのではなく、心にも原因を求めようとする推移でしょうね!。
   こうした考え方を、仏法ではすでに、三千年前から説いております〃。
   ある医学者は次のように語っている! 「精神とか、心とは何かと言う事は昔から問題になっていて、今日
   でもまだその本体が解らない。
   昔は肉体から独立した心があると考えられていたが、今、医学者は心は脳の活動によって生ずると思って
   いるが! しかしそれは脳のどんな働きによるのか解らない!。
   2+2=4であると考える時や、私は悲しいと感じる精神的なものを脳細胞の何かの変化?
   電流や化学的変化で置き換えて言い表す事ができない、体は体として取り扱って措くより仕方がない。
   心と体には我々に見える関係なのかと言うと、そう言うものでもない。
   例えば、酒を飲むとアルコ―ルが吸収されて脳へゆき、脳の神経細胞の代謝に変化を与えるが、この時に
   心については、気が大きくなって、愉快になったり、おしゃべりに成ったり、更に多くのアルコ―ルがいけば
   意識を失ってしまう!〔体から心へ~〕、今度は逆に心の変化が体に変化をおよぼす事があるでしょう 。
   実際にこう言う事も有りうる、例えば恐ろしい目に合ったとする!恐ろしいと言うのは心の出来事ですが、
   物質的な体の方面では、顔の血管が収縮して蒼白にな成り顔の血管が収縮して蒼白になり、毛は逆立ち!
   体は震える瞳孔は拡がり、心臓の鼓動が激しくなり血圧が上がる〃。

   一層恐ろしい目に合えば下肢が麻痺して、いわゆる腰が抜けた状態となる 。
   これ等はみんな、 心の変化を原因とする体の変化です〃。 〔心から体へ~〕
   これ等の機能的 考え方は、仏法に説く 【色心不二の生命哲学】 に一歩近づいた証拠です〃。
   しかしながら是は医学上の立場での思索で、肉体と心の表面的な関係を漠然と言い表したに過ぎないのだ。
      極言すれば現在の医学や生物学!生命の実体を解明する事は、到底不可能と想います 。
 
   これ等医学者や生物学者自身が既に認めている事だと思います。 ある学者は次の様に語っている!。
     『生命とは何か、この事は物理学的な時間・空間が物理的化学から定義できないと同様に生命は生物学的
       化学からは定義できないのであって、生命は把握する以外に方法は無いのである、この生命の把握と言う
   問題は、化学以外の体験の問題である』 と!。  ところで、いかに生命を把握するか!如何なる体験を
   せよと言うのかが重大問題です。 尚、ある医学者は、医学の限界を次の様に語っています 。
   『自然科学は人間が自然の中にある心理を研究して其れから得た結果を人間生活に利用しようとしている
   それゆえ人間科学の根底には、人間は自然を支配し利用しようとする目的が横たわっている!!
   医学の行うところは、普通はこれである 。


                 一念三千の法門 NO 3

   しかし自然科学的な方法で医学は随分、発達したとは言え! 生命の神秘・心の神秘については、まだ何も
   解ってはいない〃。  医学に携わる者は、この神秘に近づこうと耐えず努力しなければならない 。
   しかし、病者はこの神秘が!医者に解っている筈だと考えて、自然科学に何んとかしてもらう事が出来る筈
   であり、それが医学的治療だと思っている!  ところが、本当はほとんど何も解ってない〃。
   解剖学は人の体の部分に詳しい名を付けるのみであり、生理学は人の体が働く時にどんな物質的変化が
   有るかを診るだけの事である 。
   内科では、ウイルス性の病気に対しては、それを滅する様な物質を探求しつつ有るとは言え、その為の
   病気に対しては自然の治癒力を妨げない様に見守り、その間 患者の不安を医師の存在によって慰める
   或いは、完全に治らなかった患者に新しい世界を作り出して、患者をそこに適合させて、治した様に思う。

   
糖尿病患者は、糖質摂取を減らしてインシュリン注射をすると言う、世界改革を行えば健康な如くに
   生活して行き、これが治療なのである 。
       外科では、悪いところを切って取ってしまうのが治療である、胃癌が出きれば、胃を大部分取ってしまい!
   虫垂炎の時には、虫垂を取ってしまう 。
   しかし、脳の病気の時に脳を取ってしまうわけにはいかない!とにかく医者は積極的に治療すると言う事は
   なかなか出来ない。  医者は今のところ、毛一本生えさせる事も出来ず!ニキビの痕を綺麗にする事も
   出来ないのである!。  《最近では、これ等は可能になりましたが!・・・ かってに付け加えます》〃

   
肉体的物質的病気でもそうであるから、脳の働きの異常とは言え、心の現象と言う様な摑まえどころの
   無いものが関係した病気に対しては自然科学的な物質的な手づるはほとんど無いのである 。
   神経症のごとき脳の物質的な物を手掛かりに出来ない様な心の病気には、それを病気として治そうとして
   あくせく思い悩むのがいけない〃。
   病気なら病気で仕方がない!世界一般の価値判断からすれば悪いものではあるが、これはこれで仕方が
   ないではないかと! 自分の心の状態をやむをえないものとして、肯定し自然に任せるのである 。』
    
是は一応、医学を中心として論じたものです。 医学は、直接生命の問題に関係が在るがゆえに
    
引いたにすぎません 。
          
【色心不二】の事については、日蓮大聖人の御義口伝の至る箇所に出ています〃。
        

 

 
 

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