生命論         三世の生命
       
   2012年9月30日 日曜日
 
台風17号の東北縦断は幸い我が山形を
 避けて北上したおかげで、深夜2時40分
 ごろ迄降っていた雨が上がって雨雲を払
 い除けて、満月が顔を出す!。
 チャンス〃 午前3時40分車窓より撮影
    OLYMMPUS E-3
      
ZUIKO DIGITAL ED
  
  70―300mm F4,0-5,6
           
トリミング編集

    三世の生命 No1
                      
   仏法に解かれている【三世の生命】”とは、過去・現在・未来と、言う様に!
    生命が!絶える事がなく永遠なのである〃。

  法華経譬喩品第三の経文の中に?舎利佛等の声聞の弟子達は、釈尊が過去世に於いて
  二万億の仏の下で説法していた時に釈尊に従って仏道修行に励んだのである!そうした
  過去世の因縁によって、釈尊がインドに出現した時には叉(我が法の中)即ち釈尊の弟子
  として生まれる事が出来たのである。 しかし、未来には無量無辺不可思議劫と言う長い
  時代を経て成長するであろう?と、授記されております。
  以上の生命が、過去・現在・未来の、三世に亘ことの証明に引かれた経文です。
  証明としては、まだまだ沢山の経文が在ります〃。
  法華経寿量品第十六に云く『諸々の善男子〜如来諸々の衆生の小法を楽(ねが)える
  徳薄垢重(とくはつくじゅう)の者を見ては 此の人の為に、我・少(わか)くして出家し
  阿耨多羅三藐三菩提を得たりと説く。 然るに我、実に成仏して己来(このかた)久遠なる

  事斯くの如し』、同じく自我偈に曰く『我、仏を得て来(このかた)経たるところの諸の劫数
  無量百千万億載阿僧祗なり』と、寿量品第十六には永遠の生命を説く〜〔久遠成る事斯く
  の如し〕とか〔無量百千万於く阿僧祇なり〕とは永遠の生命を説く経文です〃。
  上記の経文は、法華経のごく一部ですが、およそ釈迦一代の仏教は!生命の前世・現世
  及び来世、所謂、三世の生命を大前提として説かれているのです。
  ゆえに仏教から三世の生命観を抜き去り、生命は現世だけであるとしたら仏教哲学は全く
  其の根拠を失ってしまうと考えられるのでる〃。
  しかして各経典には、生命の遠近広狭?によってその高下浅深?が、伺えるのです。
  さらに末法・現代の仏である、日蓮大聖人にあっても、三世の生命観の上に立っている事
  なのです〃 ただ日蓮大聖人は釈尊より生命の存在を!より深く”より本源的に”
   考えられているのです〃。日蓮大聖人は選時抄の中で「今の人々 いかに経のままに、
  後世を願うともあやまれる(過誤)経々のままに願わば得道あるべからず、しかればとて
  仏のとがにはあらじと、かかれて候」。かかる経文はあまりにも繁多であり、三世の生命観
  なしに仏法は、到底考えられないのです。
  是こそが!、生命の実相であり聖者の悟りの第一歩である〃。
  しかしながら多くの知識人は、是を迷信である”と言い〜否定するだろう。浅薄にも私から
  見れば! 否定する者こそが、自己の生命を化学的の考えない迂闊さを笑いたい。

     三世の生命 No 2
  およそ化学は因果を無視して成り立つでしょうか!?   宇宙のあらゆる現象は必ず、
  原因結果が存在する生命の発生を、卵子と精子の結合によって生じると言うのは、単なる
  事実の説明であって、本源的に考えたもので有りません。あらゆる現象には因果があって
  生命のみが偶発的にこの世に発生し死ねば泡沫の如く消えて亡くなると考えて平然として
  いる事は、あまりにも自己の生命に対して無頓着な者と言えます〃。
  いかに自然科学が発達し、叉 平等を叫び階級打破を叫んでも、現実の生命現象はとう
  ていこれによって説明され、理解されるものでは有りません〃。
  私達の眼前に人間あり、動植物が有りますが、これ等の生命は同じか?否か!?叉はそ
  の間の関連はどうだろうか!? 。同じ人間にも、生まれつき利口な人・そうで無い人・・・
  美人とそうで無い人・病身や健康体等の差があり幾ら努力しても貧困である人も居れば!
  叉は、貪欲や嫉妬に悩む人達、悩ませられる人等を化学や、社会制度ではどうする事も
  出来ないのです。かかる現実の差別には必ず其の原因が在る筈であり、其の根本原因の
  探求を無しに解決される訳がないと思います。  ここに、三世の生命を説くからと言って
  霊魂の存在を説いているのではありません〃。
  人間は肉体と精神のほかに、霊とか魂とか言うものが在って現世を支配し、さらに不滅に
  続くと言う事を承認しているのでは無い事を、此処に明らかにしておきます〃。
  人間の生命は三世に亘ると云いますが、其の長さはどうだろうか!?・・・。
    仏法の根幹ですから、此処に経文を引用します〃。
  法華経寿量品第十六に曰云わく、「然るに善男子、我 実に成仏してより己来(このかた)
  無量無辺百千万億那由佗劫なり云々。我 実に成仏して己来、複(また)是に過ぎたる事
  百千万億那由佗阿僧祇劫なり。 是より来(このかた) 我、常にこの娑婆世界にあって
  説法教化す」。  この経文は釈尊の数多くの経文中、最も大切な部分であり悟りの極低
  である〃。  
  その大意を言うなれば、〔お前達は皆、私がこの世で仏になったと想っているが、実は自分
  が仏になったのは、今から五百塵点劫と言う数える事も出来ないほど昔に、成仏して以来
  常にこの娑婆世界に居て活動しているのである〕。と言う意味で、自分の生命は現世だけ
  ではなく悟りも叉、現世だけではなくて永久の昔からの存在であると喝破しているのです〃
  同じく寿量品の次の文は、前文とは別の立場から拝すべきです。
  「諸の善男子 如来諸の衆生の小法を楽(ねが)える徳薄垢重の者を見ては是の人の為に
  我、少(わかく)して出家し阿耨多羅三藐三菩提を得たりと説く、然るに、実に成仏して己来
  久遠なること斯くの若(ごとし)」、即ち是の文は福徳の薄い心の濁った人は、生命は現世
  だけであると考えているが真実の生命の実相は無始無終である!と、説かれて居ります〃
  釈尊が仏の境涯から久遠の生命を観ぜられたのに対し、日蓮大聖人は、名字即の凡夫位
  において、本有(ほんぬ)の生命常住の仏を説ききっているのです。
    即ち凡夫の私達の姿自体が無始本有(むしほんぬ)の姿なのです。
  瞬間は永遠をはらみ、永遠は瞬間の連続です!!。   久遠とは〜働かず、つくろわず
  基のままと、説かれている。 生命は永遠であり、永遠の生命であるとは、人々のよく言わ
    れるところですが、この考え方には様々に種類があります。
  在る人は観念的に唯、永年であると主張してボンヤリ信じているが、こんな観念的な永遠
  は、悟人のとらないところです〃。   叉は、子供に生命が伝わって、その子供に伝わる
  生命の中に自分が生きていると考える人も居るが、こう言う考えでは永遠とは言えません。
  もし、子孫が断滅したら?、 自分が無くなる事になりますね!。
  地球が滅びたら亡くなる生命では永遠とは言えません〃、 子孫と自分との関係に於いて
  いま生きている息子の中に、同じく活動している自分の生命が在る事になり、甚だ不合理
  そのものである。  この様な人は、自分の死後の生命をどう考えているのか!?〃


      三世の生命 No 3
  子孫の体を自分の墓場の様に考える浅薄な生命観であり、永遠の生命を”知っているとは
  言えないと思います!。  
  法華経如来寿量品第十六の自我偈 【方便現涅槃】 死は一つの方便であると説かれて
  いる。譬えば、眠ると言う事は、起きて活動すると言う人間本来の目的から見れば、単なる
  方便である。  人間が活動すると言う面から見るなら眠る必要が無いのだが、眠らないと
  疲労とれません!はつらつとした働きも出来ないのですが、この様に人間も老人になった
  り病気になって局部が破壊した場合に於いて何としても死と言う方便によって、若さを取
  り戻す以外に方法はないのです。
  仏法の極理は一念三千ですが、死後の生命も叉!、一念三千の関連に於いて解決されて
  いる事は言うまでもありません。
  しかしながら、〔人身は受け難し・爪上の土〕 と、経文に述べられているように今現在の
  人間で終わったとしても、来世【未来)に叉同じ人間として生まれる保証は無いのです〃。
  【過去の因を知らんと欲せば現在の果を観よ】  文を解釈すると〔過去の生命など〜
               信じないと言う人は、現在 自身の置かれている結果を見なさい
  【未来の果を知らんと欲せば現在の因を観よ】 〔未来など、どうでも良いと言う者は〜
  現在の原因を観なさい〕と、教えられているのです〃。

  ここに、未来など信じない”と言う人の為に〜解り易く例を挙げてつぶやいてみます。
  眠りに就いた時に、熟睡している時間は、目覚めた時には短く感じられるが、悪夢に魘さ
  れている時間は長く感じられる事は経験されていると思いますが・・・。
  眠っている時間を過去と未来に分け例えて言うなれば!・・・人はそれぞれ日毎に見る夢は
  異なるが、悪夢に魘されて目覚めた時に、汗によって下着を濡らすぐらい恐ろしい思いをし
  たその日は、なんとなく不快な一日を過ごす事になる!?。
  この現象を三世の生命に置き換えて考えると〔不快な一日〕を過ごす事は(結果)現世を
  指すのです!。 次は〜例えば一日中人間性を忘れて、四悪趣〔地獄・餓鬼・畜生・修羅〕
  の生命状態であとあじの悪い一日を過ごしたとしたら、その夜疲れて床に就いたとしても
  まともな人間であれば熟睡できますか!?。 況や、他人をイジメ 怪我等(源因)させた
  〔過去世を指します〕熟睡出来ますか?、 他人の事など考えないで自分勝手でやりたい
  放題、善も悪も関係なく〜暴力や殺人等を犯したら・・・ 譬え法律で裁かれ無いにしろ、
  この様な人生を過ごし逝ったとする〃 未来(来世)は人間としての生命が生まれますか?
  人間として生まれたとしてもその人生は悪夢と同じ惨めで苦しい人生を送る事になるのだ
  この様な三世の生命を信じられないのなら!人生がこの世だけで終わるのなら!・・・
  何の努力もしないで、 一生気ままに楽しく暮らした方が気楽でいいですね〜。
  詐欺・恐喝・空き巣・強盗・窃盗・誘拐・暴力・殺人等を犯しながら、譬え国の法から逃れ、
  完全犯罪で済んだとしても!この大宇宙の生命体仏法律?からは絶対に逃れる事は
  出来ないと断言する〃。
  何故かと言うと!、誰が見ていなくとも、誰が知らなくとも、自分自身”本人が知ってい
  るからです、何処へ逃れようと己(おのれ)?自身からは逃れる術がありません〃。